語り継ぐ明治・大正・昭和

有史以来ほとんど変わらなかった、日本の風景や生活習慣、価値観、人生観等、が、わずかこの50年余の間に大きく変わってしまった。
時とともに、昔を知る人も、どんどん姿を消し、
いずれいなくなってしまう。
 どんな話でもいい、昔を知る人の口から、
直接に、昔の様子をお聞きし、ここに記録として残しておきたい。
豊川の中心部は、約5万人が働く、大軍事工場だった

愛知県豊川市、その中心部、現在、日本車両の工場のあるあたりを中心とするあの一帯が、およそ5万人が働く巨大軍事工場でした。豊川海軍工廠と呼ばれ、海軍が使う機関銃や大砲の砲丸を作っていたそうです。軍艦を作っていたわけではありません。現在、その中に名古屋大学の太陽を観測す大掛かりな研究施設があり、その一角に、当時の軍事工場がそのまま残っています。
毎年2月と8月に見学会が行われています。
民族文化・芸能
■空車受け違法発令…だれがどうやって調べていたのか?

空襲警報発令、だれがどうやって発令していたのか。
豊橋で石材店を営む筧さん。お国のために戦いたくても年齢が若すぎたため、防空監視員を申し出て、監視業務を行っていたそうです。現在のような機械設備は無く、双眼鏡から見る機影とエンジン音で、敵か味方かを識別、敵機なら、何機がどの方向に飛んでいるかを逐次、本部に電話で報告、これをもとに、空襲警報が発令されていたようです。
全国的にも稀、つい最近まで続いた正月飾り

正月と言えば当たり前だった角松、今は、一部のコンビニ等で見るだけ。しかし、古戸の伊藤勝文様宅では、先祖代々の飾りつけを、現在も続けている

■女子挺身隊?… どんな女性がどんなふうに働いていた?

海軍工廠には、地域から推薦された、女子挺身隊と呼ばれる女性も働いていたようです。東栄町のふっと地区から推薦された、元挺身隊員の方々に、海軍工廠での仕事や空襲時の状況等をお話ししていただきました。過酷な労働環境下で強制労働をさせられていたように思いがちですが、話を聞くと、必ずしもそうではなかったようです。但し、敵の攻撃は、義理も人情も縁故も関係なく、容赦なく行われた。
隣人の墓まで一緒に祭る旧正月

正月飾りを納めたかと思うと、すぐに旧正月。新正月より手の込んだ飾りつけと、さらに隣人の墓まで、差別区別なく祭る、この風習こそ、今の日本人が失った心では。さらに、日常使っている農機具も、洗って壇上に祭る、働き過ぎ日本人も、この時ばかりは仕事ができず、事実上の農休みだったようだ。
■要領のいい者は得をする?…ある学徒動員生の実体験

学徒動員で、青春時代の一幕を豊川海軍工廠で過ごしたユニークな中学生の工廠生活のお話です。
戦時中は、日本向けにアメリカのラジオ放送が聞けないように、名古屋から妨害電波を発していたようですが、この電波も、渥美半島の太平洋側には届かず、アメリカからの情報がこの地域では聞けたようです。赤羽根の友人から、空襲の情報を聞いて救われた人もいるようです。
■歌をよく聞けば 『お墓参りは何持っていく?』 だって

古来から東栄町古戸に伝わる盆踊り。
炭坑節やドラエモン音頭に合わせて踊る盆踊りとは異なり、盆踊りの本来の姿とも言える、初盆供養のための跳ね込みです。先祖を偲び、今の幸せに感謝する、そんな心が希薄になっている、それが現代という時代なのか。
■人を人としては扱わない、戦争中の国家とはこんなものだった

豊橋空襲を語りつぐ会の安間慎会長が、愛知大学にて、自らの戦時体験を、親族の遺品等、実在資料や実話を交えて講演した。あの悲劇を風化させまいとする、樫村愛子教授の授業の一環として
70分間、大学生に戦争の悲劇を語り継いだ。